歴史と技術転換期(昭和32年〜45年)

時代の波に乗り「脱・町工場」へと大きく舵を切った、
現在のFUKAEへとつながる転換期。

会社を引き継いだ深江實社長は、先代とはまったく違うタイプの経営者でした。性格は豪快。いち早く時代の風向きを読み取るセンスは、まさに天性のものでした。しかしまだ20代半ばの若者です。その後、様々な困難に立ち向かい、試行錯誤で乗り越えていくこととなります。

時代はまさに、高度経済成長のスタートライン。トップの判断一つが、会社の未来を大きく左右します。先代が築いた信頼を財産に、技術を磨き、さらに業務を広げ続けてきた歳月。現在のカタチへとつながる転換期として、FUKAEは次のステージへと歩み始めました。

01

FUKAEの社風をかたち作った決断

慎重で堅実な人柄が信頼を集めていた先代と比べると、二代目・實社長は、先見の明を持つ行動派。逆のタイプの経営者でした。社長就任後、最初にくだした英断が、昭和36年の独立採算制採用です。当時の松下電器や東洋工業などの大企業が、やっとはじめたばかりの新しい経営手法でしたが、脱・町工場の起爆剤になると確信し導入を決めました。この決断は大きな転機となりました。責任の所在をハッキリさせた環境の中に技術者たちを置くことで、問題意識を持って仕事と取り組み、コストへの厳しい眼が養われました。これがやがて、お客様のために高品質、短納期、低コストを追求する『FUKAEイズム』へとつながってきたのです。

02

「モノづくりのパートナー」を
目指しはじめたきっかけ

昭和36年5月、組織を株式会社へと改組。37年2月には、当時の八幡市則松で本社工場が操業を開始しました。久喜町の金型工場と紅梅町のプレス工場も本社工場へと集約。この頃の産業界は加工型業種へのシフトの真っ只中にあり、FUKAEも加工の精度とスピードをアップするための技術革新に取り組みました。お客様の元に技術者を派遣し、技術指導をいただいていたのもこの頃です。この経験も私たちの大きな転機になりました。お客様の先進的な技術を直接学べたことはもちろんですが、当社の技術者の何気ない一言が、お客様のお悩みを解決したという事例もいくつかありました。私たちが「お客様のモノづくりのパートナー」という、次に目指すべきステップを意識しはじめた、これが初めての経験となりました。

03

中間工場の完成を契機に、
自社製品の製造にも着手

昭和44年2月、ボタ山や炭坑跡地に造成された広大な工業団地に中間工場が新設されました。「こんな広い土地を…」をと懸念する人もいましたが、翌45年4月にはプレス事業部の新工場も完成。プレス機20台、粉体塗装も可能な全自動塗装設備も導入され、日本でも有数の設備と規模を誇る工場となりました。この当時プレス事業の売り上げの約半分は、ファミリー向けガレージの部品製造によるものでした。しかし経営をより安定させるため、中間工場への移転を契機に、組み立て式倉庫など自社製品の開発・製造にも着手するようになりました。

04

初回から制度終了まで続いた
「中小企業合理化モデル工場」の指定

当時の経営状態を知るエピソードの一つとして挙げられるのが、中小企業庁長官より授与された「中小企業合理化モデル工場」の指定です。企業の経営を診断した上で指導を行っていた、北九州市中小企業部診断課の推薦を受けたもので、合理化の進捗と健全な経営状態を評価された企業に授けられる栄誉です。北九州市で授与された企業は2社のみ。以降2年ごとに更新されていきますが、制度が終了する26年間、FUKAEは指定を受け続けてきました。これにより、お客様からの信頼はますます深まっていきました。