昭和45年度の決算で、創業以来初となる売上高10億円を超えたFUKAE。しかし、脱・町工場を目指して苦労していた時代を懐かしんでいる時間はありませんでした。昭和48年10月に勃発した第4次中東戦争に端を発するオイルショックの波が、日本の産業界に押し寄せたのです。
しかしFUKAEは、この不況を逆にチャンスであると、発想を転換しました。厳しい時代のなかで、さらなる合理化が求められる。これまで「金型製作・プレス加工・生産技術」の三位一体の技術を磨き続けてきたFUKAEイズムが、その本領を発揮する時代であると考えたのです。
中間第3工場、豊津工場、そして水巻工場と、次々に新工場を稼働させ、現在まで続く生産基盤を完成させたのもこの時期です。ですからFUKAEでは、2つの石油危機を挟んだこの時代を、あえて成長期と呼んでいます。
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昭和47年12月、金型設計・製造の新拠点として、中間工場に3棟目の工場が完成します。これにより中間には、精機事業部、プレス事業部、金型事業部の3事業部が揃い、互いを刺激し合いながら技術を磨くこととなりました。
新工場に移転したのは、電子部品メーカーを主要取引先としていた金型事業部二課。精密機器に対応するため、全館に冷暖房を完備。本社工場に設置されていた40台の工作機械を移転すると共に、総額1億円の新規設備も導入されました。金型を製作する作業スペースも工程ごとに分けられ、精度の高い金型づくりを実現しました。
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昭和35年操業を開始した行橋工場は、この不況のただ中にあっても受注量を増やし続けていました。しかしこの時期、行橋工場のキャパシティーは限界を迎えていました。そこで昭和50年4月に誕生したのが「豊津工場」です。
これまで単発プレスが中心であったFUKAEの生産手段にも、このころ転機が訪れました。当時ブームとなったラジオカセットレコーダー部品の受注を切っ掛けに、順送金型による加工が開始されたのです。その後も、電子部品、IT関連の通信機器部品など、豊津工場に寄せられるニーズはレベルの高いものとなっていきます。
FUKAEイズムの基本となる「金型製作・プレス加工・生産技術」を融合させた技術の真価が、いよいよ発揮される時代が始まりました。
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それまで本社工場で、モーターコアのパンチングを中心としたプレス加工を行ってきました。しかしこの当時、モーターの進化はめざましく、作業の多様化に伴う工作機械の技術革新、受注量の増大、コストの削減と、FUKAEに寄せられる要望は、ますます高いものとなってきました。この期待に応えるためにはさらなる合理化しか道はないと判断。昭和52年8月、モーターコア専用工場として「水巻工場」が操業を開始しました。
本社工場から移設した125トン、80トンの高速自動プレス機に加え、300トン、200トン、80トンの高速自動プレス機を新設。これまでのノウハウを結集した生産ラインによって、5%のコストダウンを実現しました。