歴史と技術草創期(昭和21年〜31年)

初代社長・深江庄司郎より直伝の
「真面目にものづくりに取り組む」姿勢は、今も健在。

1901年、日本の近代製鉄業が始まった地。以来、20世紀の日本近代産業の発展を牽引してきた「モノづくりのまち」北九州に、深江工作所が産声を上げたのは、戦後まもない昭和21年9月のことでした。
当時、安川電機製作所に技師として勤務していた深江庄司郎が独立し、当時の八幡市久喜町にわずか50坪の町工場からのスタートでした。周囲にはまだ、金型工場など一つもなかった時代。工具や工作機械、原材料の調達にも苦労するほど、草創期の10年間には、様々な苦難の連続でした。
しかし、初代社長の愚直なまでの正直な性格の影響で、「真面目にものづくりに取り組む」姿勢は、徐々に評価されていきます。FUKAEイズムの底辺にいつも流れる「真面目さ」は、初代社長から脈々と受け継いだDNAの一つなのです。

01

金型事業に加え、プレス事業に進出

当時の金型は、今では想像できないほどとても単純なものでした。日々の仕事も、取引先から渡された図面に従って金型を作るというシンプルな工程。そんな時代、庄司郎は金型だけではなくプレス事業にも着手するという決断を行いました。この英断こそ、現在のFUKAEを築いた最大の要因といってもよいでしょう。これで、金型技術とプレス技術という両輪を得ました。互いに切磋琢磨しながら作り上げてきた一貫生産体制が、様々なピンチを救い、チャンスを広げてくれたのです。

02

火災により工場全焼

昭和25年にはじまった朝鮮戦争の特需により、徐々に仕事も増えてきました。経営も安定してきた矢先、工場が火事によって全焼するという一大事が起きます。しかしここでも庄司郎の人柄が、逆境を救うこととなります。窮状を聞きつけた郷里・佐賀の技師達が駆けつけ、また近隣の援助もあって、何とか工場は再建されました。といっても、建て直した木造の工場は、床は土間、壁はトタン、焼け残りの柱を使用したため、所々に焼け跡があったといいます。この工場を見て、庄司郎は何を思ったのでしょうか。日頃から真面目に仕事に取り組むことで得られた温かい支援を受けて、この道をさらに歩んでいこうと決意を新たにしたのではないかと想像します。

03

第二工場完成、プレス部門を分離

この頃、取引先の社数も増え、製造部門の拡充を図るため、八幡市紅梅町に第二工場が建設されました。プレス事業のほか、炭坑向け製品や電機部品のリレーなどの製造事業はすべて第二工場に移り、久喜町の工場には金型事業だけが残ることとなりました。日々大きくなって行く事業に歓びを感じるのと同時に、工場間のコミュニケーションという新しい課題を初めて意識した出来事でした。

04

久喜工場に念願の「倣い研削盤」導入

図面を10倍、20倍に拡大し、それに倣い金属を削っていく「倣い研削盤」が久喜工場に導入されました。ドイツ製のこの工作機の値段は800万円。当時としてはかなり大きな投資です。また、導入のために鉄筋コンクリート2階建て、空調設備も整った専用の部屋を増設するほどの熱の入れようでした。次第に高い製品精度が要求されはじめた時代のいく末を読む、大胆な先行投資でしたが、やがて、フル稼働することとなりました。

05

やっと一息…というこの時期、社長が急逝

世が神武景気に沸く中、受注も日増しに増え、従業員数も70名を数えるまでになりました。社内の設備も一通り整い、これからはFUKAEブランドらしい製品を次々と送り出していこうこの年、深江庄司郎が急逝しました。享年51歳。取引先や社員からも慕われ、厚い信頼を寄せられた生涯でした。FUKAEの事業は、慎重派だった初代社長から、まったく異なる性格の長男・實に引き継がれました。